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真田幸村が徳川家康を狙った「馬上筒」って、どんな火縄銃? [真田丸・真田家]

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ついに最終回のフィナーレを迎えたNHK大河ドラマ「真田丸」。

「真田丸」の主人公・真田幸村は、豊臣秀頼や茶々から迎えられ大坂城に入城。大坂冬の陣を戦ったものの、大坂城に打ち込まれた徳川家康の砲弾によって、和睦に。この和睦によって、徳川家康は大坂城の外堀を埋め、真田丸も破却してしまうのです。こうして真田幸村と、大坂城の豊臣方は、不利な状況に追い込まれます。

しかしながら、「真田丸」の主人公・真田幸村は、大坂の陣の不利な状況を打開しようと策をめぐらせます。そのひとつが、新たな武器「馬上筒」でした。この「馬上筒」は短銃式の火縄銃で、またの名を「宿許筒」とも。この「馬上筒」は馬に乗っていても発射できたといいます。

この「馬上筒」を手にした「真田丸」の主人公・真田幸村は、馬上から徳川家康を狙います。
はたして、真田幸村は徳川家康に「馬上筒」を放つことができたのでしょうか?






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馬上筒は長さ40センチの短銃?連射もできた?



大坂夏の陣で、「真田丸」の主人公・真田幸村が使用したとされるのが「馬上筒」です。

真田幸村が使ったとされる「馬上筒」は、別名「宿許筒」とも。
新聞記事によると、短銃式の火縄銃「宿許筒」は銃身が長さ40センチほど。連射も可能だったといわれています。

真田幸村が使用したとされる「宿許筒」には、時計のバネや歯車などを駆使していたとも。当時の最新技術が生かされていたようです。

はたして、「真田丸」で描かれているように、真田幸村が実際に「馬上筒」を使ったのかどうかはわかりません。まず、真田幸村が本当に「馬上筒」を入手していたかどうかもはっきりません。が、どのような経路をたどって、

ただ、紀州徳川藩の歴史書「南紀徳川史」には、真田幸村が「馬上筒(宿許筒)」を使ったという記録が残されているようです。もっとも、「南紀徳川史」は、幕末から明治にかけて編纂されたもの。大坂の陣ははるか昔のことだったはず。真田幸村が「馬上筒」を使ったという記録に、どれほどの信憑性があるのか、なんともいえないところです。

揺れる馬上では「馬上筒」の狙撃も難しく?



「真田丸」で描かれているように、真田幸村が馬上筒を手にすることはあったのか。

大坂の陣は1615年のこと。
日本に火縄銃が持ち込まれたのが1543年。わずか80年ほどの間に、日本は鉄砲大国になっていたのです。日本で火縄銃がさかんに製造されたのは、もちろん戦国時代が続いたためでした。

戦国時代を通じて、火縄銃は日本各地で生産されることになります。
戦国時代末期には、日本国内に50万丁の火縄銃があったといわれるほど。だとすれば、「真田丸」で描かれているように、真田幸村が短銃式の火縄銃を手にしたとしても不思議ではない気もします。

ただ実際には、馬上から火縄銃を放つのは、想像以上に難しいようです。馬を操りながら、馬上筒を使うため、ゆれてしまい命中度が下がってしまうのです。

弾丸弾薬こめるのに手間、6発発射に44秒も



さらに、火縄銃は発射するのにも、手間がかかりました。
火縄銃は、銃身の先から一発ずつ弾丸と弾薬をこめなければなりません。そのため、火縄銃の連射は難しかったのです。戦国時代末期には、弾丸と弾薬を一つにまとめた「早合」が開発されましたが、実験では6発を発射するのに44秒かかってしまったそうです。

はたして、真田幸村が使ったという「馬上筒」は、本当に連射ができたのか。
「馬上筒」が連射可能だったとしても、馬上で操るのは至難の業だったのではないでしょうか。

「真田丸」最終回では、真田幸村が徳川家康に向かって「馬上筒」を構える場面が描かれるのではないでしょうか。はたして、徳川家康に向かって「馬上筒」を構える真田幸村の結末は?

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